名無しの拙作 第3作目 第9話:心に刻まれた傷

店主が声をかける。
「俺は上がるから、好きな物を飲んで話して。お疲れさん!」
そう言い残し、住まいの二階へと上がっていった。
暫くして水島が女将に尋ねた。
「どうしてオヤジさんはあんなに人が嫌いなんですか?」
女将は少し考え、「話せば長くなるけど、いいかな?」と前置きした。
二人が静かに頷くと、女将はゆっくりと語り始めた。
「主人はね、親に裏切られたの。両親は毒親で、父親は散々主人を虐めて、最後には蒸発してね」
水島は悲しそうな顔をした。
「そんな事があったんですか……」
女将は続けた。
「そして母親は、主人が十歳の時に男を作って出て行って、児童養護施設に引き取られたの。主人が社会に出て給料をもらうようになったら、母親は彼のアパートに転がり込んで……主人が店をやりたくて若い頃から貯金していたお金を盗んで、また出て行ったの」
水島の表情はさらに曇った。
女将は続ける。
「私の家族もね、母が認知症になった時、叔父と叔母が財産を自分のものにしようとしたの。その時は主人と弁護士で何とか戻したけどね」
「そんなことが……」
水島は驚きの声を漏らした。
女将はさらに重い過去を語る。
「それだけじゃなくて、主人の大親友だった保険代理店の社長がいてね。業績が良くないからって、主人が貯めていた店の開業資金を一時的に預けてくれと頼んできて……それを遊興費に使い込んだの」
「え、それは大変でしたね……」
水島は胸を痛めたように言った。
女将は静かに続けた。
「幸い、保険会社の正規の領収書だったから、民事裁判で八割は戻ってきたけど……その過程で主人はその代理店の社長とグルだと言われて悪者扱いされて、周囲からも白い目で見られて辛かったの。でも、その経験は人生の大きな勉強にはなったの」
山下が口をはさんだ。
「それだけの経験があれば、人間不信にもなりますよね」
女将は頷いた。
「その親友が謝りに来て、『刑事告訴だけはしないで』って主人に頼んだの。主人は『お前には子供が四人もいるんだから、これからは真面目に生きろよ』って言って許したの」
水島はしみじみと言った。
「女将さん、オヤジさんは優しいですね」
女将は微笑んだ。
「主人はその親友の子どもたちを、いつも可愛がっていたから」
「本当に大変でしたね……」
水島は胸に手を当てるようにして応えた。
――つづく。